晩飯はわびしかったかい
今日も1人で働いた。
今日の晩飯は某100円コンビニの
マグロ丼。370円だ。
事業主たるもの出るお金は極力抑えるのだ。
移動の途中でオニギリでもと思いコンビニに寄ったのだが、400円以下、さらにカロリーも400キロカロリー以下、ということで選んだ。
さて買ったは良いものの、どこで食べようか。
オニギリなら行儀は良くないが歩きながらぱぱっと食べることも出来る。
だが、このマグロ丼は立派などんぶり物だ。
なので近くの公園で座って食べることにした。
暗がりの中、蓋をあける。
醤油の袋、ワサビの袋。
どこにもどんぶりを置くところが無いので片手中心の作業だ。
誰も私ごときに注意を払ってはいないので気にすることも無いのだか、何か恥ずかしい気がして、急いで醤油袋を開け(注意しないと飛び散るのでそれは避けて)ざっとかけてかき込むようにして食べた。
これは私の性分なのだが、こうした時、おかしいのだ。
泣きたくなってしまい、ポロポロと涙がでるのだ。
私はどちらかというと甘やかされ、大事に育てられてきた方なので、食卓にはいつも沢山のオカズが並び、祖母、姉も含めたそこそこ多人数で食事をしてきたのだ。
だが、大学を卒業し、その後は本当に仕事仕事で家族、とくに自分の家庭を持ってからもそうした賑やかな食卓、ということは稀になってしまつていた。
家内は本当によくできた家内だが、どうやら料理は嫌いらしく、沢山の食べ物がテーブルに出るか、というとそうでもない。
まあ、そんな物さ、と思いつつこの30年ほどすごしてきている。素晴らしい家内で自慢だ。
だが、ごくたまに、私は1人で食事をして、泣くのだ。
良い大人の私が、事業をしている私が、快活に世の中に切り込んでいく(風に見えていてほしい)私が、だ。
特に独立してからその傾向が強くなった。
私は幸せなのか。
あの子供の頃思った食卓のような、明るい幸せはどこにも無いのか。
そこまで考えることは無いのにそう考えてしまうのだ。
サラリーマンだった頃は毎晩誰かと飲んだ。
これで良いのか、と思いながら。このさき、歳を取っても、どこか、人生の流れに乗り、うまいこと定年、老後を迎えるのだろう。過度の心配もせず過ごせるのだろう。そこにはとりあえず、食卓に複数のオカズが上がる日常、またはそれ的なモノが待っているのだろう。そう考えていた。
だが、独立したときからそれは無くなった。
後から気がついた。
独立とはそういう基礎になるような幸せと
時に訣別しなくてはならないものなのだ、と。
本当にそうなのかは分からない。
おそらく他にも方法はあり、私のように感じていない人もいるのだろう。
私は独立して10年。苦しい毎日だ。気持ちを奮いたたせて毎日過ごしている。
私は幸せになりたくて会社を辞めた。
1人で仕事する。その分テンションは高く、気持ちにはいつも張りがある。
その意味では幸せだ。
でも、こうして1人で食べる時、どうしても涙がでる。理屈では無い。出る。
妻や子供達を幸せにしてるのか。
もっと頑張らないとダメじゃないのか。
じゃあいつそれが達成できるのだ。
お前は自分で幸せに背を向けているのでは無いか。
それは仕方の無いことなのか。
家にも帰らずずっと仕事に打ち込んでいる。
幸せなのか。
正直わからない。でも今はこうすることしかできない。これでいきている。
きっと幸せなのだろう。
だがもっと幸せになることもできる。
その方法を探すために働く。
だから明日も
働くのだ。